2011年7月15日金曜日

つくねニク▢

どどすこすこすこ、あほ注乳。こ、こ、こんなんでてもーた。


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<特別寄稿:ブリブリヤング大学名誉教授、ジョニー・ユーエンティ>





世の中、ゼニや。





日本はオーサカ地域で、いにしえより受け継がれている人生訓には、まことに奥深いものがある。MoneyPowerの源泉である、というこの単刀直入なものいいこそ、世界を見通すカギなのである。

つくねニク現象が、いまカリフォルニアを中心として巻き起こっている。タカシムラカミのフィギュアのようなフォルムをもち、抹茶のような深いグリーンのヘア、そしてやや内股の日本少女が、我がアメリカの若い世代を熱狂させている。

この日本生まれの特異な風貌の美少女は、歌手である。英語は基本的に話さない。日本語で歌うのだ。それでも彼女のパフォーマンスは、日本語のわからない若者を惹きつけて止まない。何十年も前に、日本の歌手の「スキヤキ」という歌がアメリカでのヒットチャートのトップに躍り出たことがあるが、再び同じことが起きるとしたら彼女はその最も近い位置にいる。

彼女は、つねにヴォコーダーを通し、話し、歌う。だから声質は機械的で抑揚に乏しい。私の友人である日本人の大学教授に聞いたところ、あのイントネーションは標準的な日本人のそれとはほど遠いらしい。

そして、彼女について最も興味をそそる点が、彼女は日本人でないばかりか人間ではないことだ。そしてロボットでもない。一応アンドロイドということになっている。さらには、彼女は実在のアンドロイドでなく、架空の存在である。

現代の若者は、ディズニーに登場するシンデレラ姫のイメージに本気で恋をするようになったのだ。Sheでなくitなのに、若者達は明らかにsheだと見ている。Nikuのファンは、必ずしも男の子とは限らず、女の子にも多い。ともに、アンドロイドのNikuに人格を感じ、彼女の放つオーラに触れることを望み、彼女と自分が全く対等な存在として受け入れているのである。

なぜ、そのようなことになったのだろうか?

この問いに誰もが得心のゆく答えをだすことは難しいが、私は心理学的見地から、その一端を解きほぐしてみたい。

彼女の存在は、人間と非人間、二次元と三次元、そして生物と非生物、さらには現実と仮想といったさまざまな境界線に位置している。そして、現代の若者も、同様のさまざまな境界線に位置して生きている。現実と仮想世界(ネット)の境界、擬似的3D 画像とリアルなビジョン、繁栄と貧困、強いアメリカと張り子の虎のアメリカ。

こうしたボーダー上を同じように生きることを、Nikuへの共通項として感じていて、彼女と関わることが、ボーダーを生きる者同士の証であり、Nikuのような存在との絆を築くことが生きる実感につながる、と感じるのだと考えられる。

それだけではない。深層心理に潜む別の要因も熱狂を生む。Nikuは、人間のようで人格のない少女。彼女は自らの意志を持ちながらも、決してNoを言うことがない、つまり、すべてを受容させても、人間には文句を言えない存在だということが、若者の潜在的攻撃性を刺激している可能性である。すべてを自分の支配下において、何をしても自分が罪に問われることはないし、神を冒涜することにもならずに済む。都合の良いNoなし少女Niku。ひひひひひひひひ。24時間笑顔を絶やさず、どんな辱めをうけても腐ることのないタフさ。

最近のゲームなどで顕在化している欲望の発散手段としての仮想世界にマッチし、みずみずしいリアリティを損なわずに生きているNiku。アンドロイドは、暴力も性も、ひがみやいじめも、受けとめてくれる。それは同時に、自らの映し鏡としても機能する。自信と不安の両面を彼女に見いだすのである。

しかし、かっこいい、かわいいともてはやされるつくねニクも、生まれた日本では、ある程度は知られてはいるけれど、知らない若者もたくさんいるそうだ。それが、我がアメリカのナウいヤングのハートを急にわしづかみにしたのは、どういうわけだろう。

黒幕はトヨヲタなのである。日本でもライバルのヲッサン自動車が一部の若者にしか共感を呼びそうにない、低燃費少女メイジなどのキャラクタを使ってコミュニケーションを図ったことがある。それと同様に、エキゾティズムと日本のアニメやボーカロイドなどの鎧をまとった、つくねニクを、若者をターゲットとして鮮烈デビューをさせたのである。

芸能人は知られてナンボ。知名度が上がれば親近感も増す。だから日本では選挙のたびに、単純だが効果のあがる方法として、ひたすら名前を連呼するのだそうだ。露出を上げれば、コントロールしやすい、コントロールできれば、モノは売れる。

露出を稼ぐ唯一にして絶対の道は、露出可能なメディアをたくさん買って(確保して)、雨あられと情報を流すやり方である。それには、ゼニの力がものをいう。Money of Power, Power of Money、である。世の中はゼニで回る。ゼニは世界を変え、世界を支配する。ああ、つくねニクは仕掛けの産物。つくねニク、シカッケー。

我が国の若者たちは、そんなことにお構いなく、NIKUちゃぁーん、と今日も叫び続けているのである。釈迦の手のひらで遊ぶが如く。


2011年6月1日水曜日

音グルメ

ひゅーんひゅーん。本日は、グルメ評論家音竹福三さんの一家言です。

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耳においしい食べ物を。
などと書くと、 耳からそうめんでも流し込むような
奇妙な光景を想像するかも知れないけど。


耳から入ってくるものは、基本的に空気で、
耳から脳に伝わるのは、空気の振動、
つまりは、おいしい音をもっと聴こう、ってわけ。


質を伴う音は大きく二つに分かれる。
一つは、音楽。誰それのどんな曲、でわかる。
もう一つは、音そのもの。素材としての音。
二つとも大事じゃないかと思うのです。

おいしい食べ物は、素材と調理、
両方整っていないといけませんね。


音の善し悪しをコトバで伝えるのはなかなか難しい。
だから、「いい音楽を」とは言いやすいのだが、
それにふさわしい音を、といっても
じゃあどんな?となる。


めがねレンズの善し悪しによる、
見え方の差について、 語りにくいのと同じ。


少なくとも、この私に一つ言えることは、
おいしい音、というものが確実に存在していて、
それが耳から入ってくると至福の体験が得られる、ということ。


同じ音楽が違って聞こえる。
今まで聴いていたのは何だったんだろう、と思えることがある。
そうした体験には、いくばくかの努力が必要。


良い素材は、それが良いとわかっていることと、
それを探して手に入れる努力、いや楽しみ。
手間ひまと、お金を投ずる思い切り、または覚悟。


個人的な体験は、たとえ伝えられても、共有はできない。
私の至福、としてしかわからない。


苦痛に耐えて走る人だけが、
ランニングハイを体験することができるように、
良い音による至福の体験を、
一生知らないでいることもあるし、
知ってしまって虜になる人もいる。


いろんなことで人生が変わる。
音にもそうした力があるのだなあ、とちかごろ思っています。


2011年4月30日土曜日

「薔薇の名前」:すべてをぶち壊す音楽

本日は晴天なり。こんなのが出てきたけど、面白味に欠けるなあ。すんません。

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「薔薇の名前」映画を見た50代のおじさんから。

薔薇の名前 特別版 [DVD]

すばらしい映像で、個性的な俳優を取りそろえ、申し分のない面白さだが、あの音楽は耐えがたい。映画は時代考証を重ね、(マリア像では失敗したものの)細部にわたって手抜きなく造られている。しかし、十分なお金と必要な時間を費やしたにもかかわらず、音楽はまったくいい加減だ。最後のクライマックスシーンで、弦楽を模したチープな音を聞いたときには、思わず音を消したくなった。

単なる想像でしかないが、音楽制作者は、もう一度やり直したいと思っているに違いない。せめて、生楽器での採録をしたいと思っているだろう。

物語は14世紀が舞台になっている。私は音楽が、映像のように時代に忠実なものがいい、と思っているわけではない。劇中で歌われる聖歌については、14世紀に歌われていたと想像できるものが使われていて、雰囲気は良く伝わってくるが、BGMは役割も違うし、当時の世俗の曲を楽器の考証を検討しつつ行っても、我々のエモーションに訴えるものが得られるかどうかは疑わしい。

しかし、である。19世紀的なロマンチックなメロディーを、あの音源で聴かされるオーディエンスはたまったものではない。映像が醸し出す気分に浸れないのである。少なくとも自分には、すべてをぶち壊した、と思われた。

もともとは、映画の撮られた1980年代半ばに、古楽器をサンプリングして音楽を組み立てていたらしい。そして、できあがったものは監督の気に入らず、急いで作り直したものを採用するか、さもなくば音無しでやるつもりでいる、と作曲家に伝えたらしい。そして、急いで作り直して送られた音楽を監督がOKして、使うことになった、と監督自身が解説で明かしている。

なぜ、こんなものをOKしたか、はわからなくもない。1980年代の半ばは、FM音源のポリフォニックシンセサイザーが華々しく台頭した時代。人類にあまりなじみのなかった電子音が新鮮に思えたのかも知れない。弦楽器をよく模倣し、ゲーム機に使われていたFM音源に比べれば十分クオリティーが高い、と判断したのかも知れない

ただ、撮影から15年以上を経た後の解説で、これで満足しているとした監督のセンスは疑わざるを得ない。100万ピクセルのデジタル画像をA2ぐらいに引き延ばして十分満足だ、としている映像クリエイターのようなものだ、と思う。もしこの音源を使うなら、弦楽器の模倣ではなく、もっと聞いたことのないような音にまとめる方が良かったのかも知れない。サンプリングであるかやFM音源であるかどうか、が問題なのではなく、こころを揺さぶり得るものとしての音になっているかどうかが問題なのだ。だから、歴史的名画として残すために、音楽を採録して欲しいと強く願う。

2011年3月20日日曜日

「こだまでしょうか?」「実は、オウム返しなんです」

ちわー。松鶴家千とせbotです。わかんねーだろーなー。

元ネタはこちらです。例の耳たこCMですが http://bit.ly/e872vo

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「遊ぼう」っていうと、

「もう少し、説明してください」という


「馬鹿」っていうと

「なるほど。それで」という


「もう遊ばない」っていうと

「少し、悲観的になっているようですが」という


そうして、なんだか薄気味悪くなって


「ごめんね」というと

「どうしてそう言うのでしょう」という


おかしいんじゃないでしょうか、この人

いいえ、Elizaです。



2011年3月15日火曜日

日本を救う、セキュリティ・ティッシュペーパー

ぐらぐらぐら、あ、出てきました。

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<Tohoku Confidential特派員、ヤン・デンマンJr.>

未曾有の厄災に際して展開された、日本人の整然とした行動様式には目を見張るものがある。いつもなら時間通りに列車が来て当たり前の東京で、文字通り長蛇の列に並び、順番を崩すことなく、入ってくる電車に乗れるだけの人が目一杯乗ってゆく。それは、社会的に経験を積んだサラリーマンだけでなく、老人もご婦人も、そして若者ですら、同じように黙々と秩序を保つように振る舞う。

こうした忍耐強さを、日本人はどこで獲得するのだろう。それは歴史的なものなのか、学校教育なのか? おそらくそれもあるだろうが、日本には、そうした忍耐力が鍛えられる場が用意されている、と高校二年生の保志野愛(17)は語る。

保志野によれば、コミックマーケット(通称KOMIKE)という、同人雑誌フェスティバルとも言うべきオタクの集うこのイベントでは、3時間の行列はごく普通だ。保志野にとっては、コミケで経験ずみのことを、災害のときに同じように実行しているに過ぎない。KOMIKEは優れて教育的な機能を持っていると言える。

この3時間の行列に耐えることこそが、「本物の日本人になる」ためのイニシエーションと言えるかも知れない。例えばそこで、利尿作用のあるコーヒー類を飲まないとか、何をして待つか、などさまざまなノウハウを身につける。他にもトイレで着替えをしない、とか、列を離れるときには声をかける、などの不文律がある。KOMIKEに関するルールはネット上にもまとめられている。http://www39.atwiki.jp/vipcomike/pages/17.html

日本人は様々な場で不文律を適用する。そして不文律を生む主体は、空気と言われている。空気は日本人の信仰の対象である。空気こそが神であり、行動規範、心と行動の拠り所にもなっている。神がそこに存在していることを都度確認し、その声を聞き帰依することを、彼らは「空気を読む」という。空気という神が支配する国が日本なのである。

並べ、と空気が宣い、耐えよ、と空気が命ずるのである。空気に自らを委ねていれば、彼らは落ち着いていられる。逆に空気に逆らうことは、彼らに疎外感をもたらし、所在なさを与える。

空気は時としていろいろなものに付着する。例えばKOMIKEでは、同人誌に付着し、それが彼らの守護神、あるいは護符であるゆえ、彼らは皆が小遣いの半年分をそこに投入するのである。そして、いにしえより、この空気が形となるものは様々であり、八百万の神として信仰されてきた。日本人の信仰の対象は、その場/時間/時代により融通無碍に変化する。それが、「空気」と彼らが神を名付ける所以だとするのが宗教学の定説となっている。

彼らは、空気の命ずるままに守り神を手に入れた。その有力なものが、ブランドものの小物やバッグである。彼らが高度成長を成し遂げ、可処分所得が増大したときに、神はブランドのバッグに宿った、と考えられた。例えば、ルイ・ヴュイトンのバッグは、生産国のフランスではステイタス・シンボルであるが、かつての日本では信仰の対象としてのアイコンであった。こうして、日本の女性は粛々とブランド製品を買ったのである。

神なる空気は、厄災に際しても、特定のものに宿る。そして、その欠乏、すなわち神の不在が日本人を不安に陥れる。オイルショックと呼ばれた石油製品の欠乏に際しては、どうしたわけか、日本人はトイレットペーパーにそれが宿ったと信じた。まだKOMIKEのない時分であるから、今よりは秩序正しくもなく、トイレットペーパーという守護神を逃すまいと我先にトイレットペーパーを奪うように買いあさった。

略奪は神の御心にそぐわない行為であるがゆえに、決して日本人は行わない。買うことができなければ、不安におののきながらも耐えねばならない。その試練を避けるがために、普段から、危機に陥ったら「空気をいちはやく読み取る」能力を怠りなく磨くのである。

地震が起こると、人々は張り切った。神への信仰を披瀝するお祭り気分が蔓延するからである。空気は人々に、「足りなくなると思うものに備えよ」と啓示を与えたもうた。もともと引きこもりを得意とする民族であるから、籠城はお手の物である。食料品、とりわけ主食である米やパン、そしてかつては水道水で十分だった水も最近では必需アイテムとして認識され、真っ先にバスケットに入れられる。人々は他に、懐中電灯、LEDの電球、電池、簡易ボンベなどを粛々とバスケットに入れ、レジに並ぶ。これら長期戦に備えたさまざまなもので買い物袋を一杯にした人々は、こころなしか晴れ晴れとした表情を浮かべてスーパーから出てくる。それはあたかもミサで懺悔をすませたキリスト教の信者のようである。

その足で、今度はクルマのガソリンタンクを満タンにすべく、ガソリンスタンドに向かい、忍耐づよく並ぶのである。

不思議なことに、クルマに積まれた、スーパーの買い物袋の多くに、ボックス型ティッシュパーパー5個入りを二つ、つまり10個のティッシュペーパーが入っている。

かつてのトイレットペーパー以降、いやそれ以前から神は紙に宿るものという信仰がこの国には満ちている。だからこの度の大震災に際しても、ティッシュペーパーは必需品扱いを受けている。

ティッシュペーパーがないと、彼らは狼狽するのである。清潔を保つだけでなく、ありとあらゆる局面でティッシュペーパーの感触を彼らは希求する。それはあたかも、チャールズ・シュルツのマンガに登場するライナスの毛布のようである。そう、セキュリティ・ブランケットならぬ、セキュリティ・ティッシュペーパーなのだ。

こうして、この国のかつての正月のように、いやそれ以上に店の中がすっからかんになり、各家庭には食料と、ティッシュペーパーが満たされ、彼らは災難に立ち向かうエネルギーを維持するのである。

そうして準備を整えて、彼らは被災地の暗い寒空で空腹に耐えながら助けを待っている同胞の無事を祈ることが可能になるのだ。彼らは同胞のために何かをしたいと思い、テレビの情報にかじりついて、情報を集める。節電に耐え、混雑した電車で会社に通い、仕事をこなしながら、被災地に思いを寄せ、そして寄付をする。

被災地でない地域に住む日本人にとっては、「初めにティッシュペーパーありき」なのだ。そうしていつの間にか、自分たちも同じモノ不足で連帯するのである。
201X3月某日)

2011年3月10日木曜日

氷河期に過熱する就職戦線から学生を守る法

こんにちは、国民の皆さん。本日は、こんなものが出て参りました。

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201X年、衆参の議席数をともに過半数に伸ばした公産党は、野党第一党たるよじ登れ日本などからの強い反発にもかかわらず、「就活チケット法案」を強行採決により可決した。この法律の趣旨は大学卒業時に就職先が見つからない、という問題に対して、国が企業と学生のマッチングに、より強い関与をすることによる解決を図ることにある、とされる。

就活チケットとは、学生に一定数を配布した後、学生が就職一エントリーする度に一枚ずつ使用することで、一人当たりのエントリー数を抑制し、過度の競争を避けるとともに、企業や学生の負担を避け、より多くの学生に就職の機会をもたらすと公産党は主張する。

厚生労働省では、従業員数1000人以上、もしくは就職人気ランキング800社までのエントリーに使えるAチケット2枚と、それ以外の企業エントリーに使えるBチケット3枚の計5枚を就職選抜の協定期間である3年次以上の学生に選定の始まる3月に配布する。そのことで、採用意欲の高い中小企業への関心と学生の応募動機を高め、企業のマッチングを促進して卒業後の就職先未定率が減るものと期待されている。なお、開始年度から3年間は、AB2種類を用意するが、その後はA/Bの区別を廃止する。

また、この法案は、就職選抜の公平性を高めるべく、共通一次テストを設けること義務づけている。これは、大学入試のセンター試験と同様であるが、英語または中国語、日本語、社会科、算数などの学力や常識のテストの他、持久走、借り物競走など体力や要領の良さを見る試験、また自由選択科目として、イッキ飲み、カラオケ、幇間、ひょっとこ踊り、手品などの宴会芸も用意されている。

また、学生やその親からの反発を沈める方法として、チケット配布対象の学生の1パーセントが、抽選により「自分が行きたい企業を指名する権利」を持つことも法案に盛り込まれた。ほかに、採用予定数の10%は、大学入試同様、AO方式による協定期間に縛られない選択方式も可としている。AO方式は、大企業がより自分の会社にあった学生を選抜するためのもの、という位置づけになっており、例えば美人コンテストによる受付嬢の選定などを実例としているが、実際は、大企業によりよい学生を選べる抜け道を用意するものになる、という指摘がなされている。

公産党党首の羽毛田二毛作議員は、「政治が主導することで、大企業一辺倒の就職活動を少しでも是正したい」と語っている。

しかし、野党はそれぞれ、これに対して強い疑念を抱いている。まず、よじ登れ日本は、「自由であるべき職業選択に枷を加える愚昧である」と糾弾、新党おまいらは、「AOという抜け道を用意したザル法である、と主張する。

一方で、チケット特需を期待する印刷業界や、共通一次のシステムに参加するIT業界、予備校、語学学校、カンニング用特殊携帯開発企業など、期待を寄せる企業は、公産党全面支持を表明。この法案を巡って、日本国中で意見が完全に分かれている。中小企業は概ね賛成の意向、大企業はどのような方式をとろうが相対評価ゆえ、これまでのやり方と何ら変わらないと静観の構えを見せている。

学生は、こうした外的圧力ではあっても、大企業に入れなかった場合に中小企業に入ることが、自分の実力だけでなく、政府の責任にできることで、表面的には反対のポーズをとりつつも内心ほっとしていると、さる就職コンサルタントは明かす。

政府与党は、就活チケットが国民の支持を得つつある状況が確認されたとみて、婚活チケットの検討に入った。(以上、読経日々新聞より)

2011年3月2日水曜日

シューカツのもう一つの顔、ヒューリスティックな会社選びと青い鳥症候群

ぶぶぶんぶんぶん。今日はこれだい。

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   「えー、先般お伝えいたしました、平和日本のシューカツ祭り。本日は、ツイッター界隈でぶいぶいい言わしている韜晦大学教授、丑田罪餡先生のツイートをとぎゃりました。先生はまだまだ続くといっておられますが、いつ終わるかは神のみぞ知るということでご寛恕のほど願い上げます」

1. 中学から高校まで、学生は偏差値を基準に選抜を受けてきた。一元的な数字によって自分の立ち位置がはっきりとしていた。

2. 就活は、偏差値以外の測度で自分が選ばれる初めての大舞台といってよい。どの学部のどの学科が偏差値いくつ、という基準は企業にはなく、したがって「順序」が大きな意味を持たない。

3. 学生の当惑は、そこに由来する。TOEIC何点とれているか、が唯一自分の「英語」での立ち位置を証明してくれるものだ。それ以外の評価に晒されることは、予測できないがゆえに不安をもたらす。

4. 偏差値のもたらす最大の弊害は、ものごとは何でも順序尺度、あるいはベル型カーブで表現できるような一定の確率分布に置き換えられるという無意識の信仰を産むことである。

5. しかし就活は「職業に就く」のが本筋で、会社に就くわけではない。しかし、学生も企業の人事担当者も、基本的には「就社」を前提としている。

6. 会社にもきっと序列があるはずだ、と考えるとどの分野、どの職業という選択肢の他に、会社の偏差値を知らず知らずのうちに探していることになりはしまいか

7. 公表されていない偏差値を人気という尺度に置き換える。そうした一元的企業の序列をもとめるのが今の学生達だ。だから、三菱と三井の両方受けても、何の抵抗も感じない。

8. 専門性と判断基準の希薄な学生達は、選択の方法として「人気」というバロメーターにすがる。外資のコンサルタントが終わり金融が終わると、次は商社、そしてマスコミなどと「業界偏差値」を基準として節操なく次から次へと受ける。

9. 従って、一つ内定をもらったからといってそこで打ち止めにはならない。とにかく粘る。少しでも「いいところ」を狙うからだ。ベストに出会えるまであきらめない。

10. 人も企業も能力も性格もすべてに序列がある、という思想があるから、一番にたどり着くまでは諦めきれない。青い鳥症候群がこうして拡散する。

11. 青い鳥症候群は、お見合いを繰り返して、結局誰かに決めきれないことにも現れるが、企業の場合は、内定式などという終わりの期日が設定されているから、その時点での一番を選ぶことになる。

12. 本来比較不能なものを敢えて比較できるはずだ、という思い込みは、今の日本に蔓延するランキング好きと軌を一にする。やや踏み込んで言えば、「ランキング病」である。

13. ランキング好き、もしくはランキング病の背後にあるのは、「終わりを求めるキモチ」だ。際限のない青い鳥探しを、ランキングというすでに「一番探しの決着」がついたものが救ってくれるのだ。

14. ランキング病のもう一つの側面は、評価の外部化である。評価のアウトソーシングといってもいい。自分で決めることに自信がないことの現れ、とも言える

15. シューカツに話を戻して、採用する側からみても、初期の篩い分けとして学生の偏差値的側面を見る。拠り所はTOEICWEBテスト、そしてそれをある程度保証する卒業大学のランキングだ。

16. 就職は本来「試験」ではない。試験の要素があるとして、それは点数のつく部分だけである。学生はそれを勘違いして「落ちた」などという。

17. こうした幻想に乗っかって商売する「就職業界」は、就職偏差値のようは一元的な評価基準があるという前提で、学生に接する。それが繁盛のコツだ。

18. 魚心あれば水心。ESの書き方、強みのアピールの仕方、面接の仕方。何から何まで「うまく乗り切る」方法を偏差値の幻想に乗せて指南する。 (まだまだ続く)