2011年3月15日火曜日

日本を救う、セキュリティ・ティッシュペーパー

ぐらぐらぐら、あ、出てきました。

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<Tohoku Confidential特派員、ヤン・デンマンJr.>

未曾有の厄災に際して展開された、日本人の整然とした行動様式には目を見張るものがある。いつもなら時間通りに列車が来て当たり前の東京で、文字通り長蛇の列に並び、順番を崩すことなく、入ってくる電車に乗れるだけの人が目一杯乗ってゆく。それは、社会的に経験を積んだサラリーマンだけでなく、老人もご婦人も、そして若者ですら、同じように黙々と秩序を保つように振る舞う。

こうした忍耐強さを、日本人はどこで獲得するのだろう。それは歴史的なものなのか、学校教育なのか? おそらくそれもあるだろうが、日本には、そうした忍耐力が鍛えられる場が用意されている、と高校二年生の保志野愛(17)は語る。

保志野によれば、コミックマーケット(通称KOMIKE)という、同人雑誌フェスティバルとも言うべきオタクの集うこのイベントでは、3時間の行列はごく普通だ。保志野にとっては、コミケで経験ずみのことを、災害のときに同じように実行しているに過ぎない。KOMIKEは優れて教育的な機能を持っていると言える。

この3時間の行列に耐えることこそが、「本物の日本人になる」ためのイニシエーションと言えるかも知れない。例えばそこで、利尿作用のあるコーヒー類を飲まないとか、何をして待つか、などさまざまなノウハウを身につける。他にもトイレで着替えをしない、とか、列を離れるときには声をかける、などの不文律がある。KOMIKEに関するルールはネット上にもまとめられている。http://www39.atwiki.jp/vipcomike/pages/17.html

日本人は様々な場で不文律を適用する。そして不文律を生む主体は、空気と言われている。空気は日本人の信仰の対象である。空気こそが神であり、行動規範、心と行動の拠り所にもなっている。神がそこに存在していることを都度確認し、その声を聞き帰依することを、彼らは「空気を読む」という。空気という神が支配する国が日本なのである。

並べ、と空気が宣い、耐えよ、と空気が命ずるのである。空気に自らを委ねていれば、彼らは落ち着いていられる。逆に空気に逆らうことは、彼らに疎外感をもたらし、所在なさを与える。

空気は時としていろいろなものに付着する。例えばKOMIKEでは、同人誌に付着し、それが彼らの守護神、あるいは護符であるゆえ、彼らは皆が小遣いの半年分をそこに投入するのである。そして、いにしえより、この空気が形となるものは様々であり、八百万の神として信仰されてきた。日本人の信仰の対象は、その場/時間/時代により融通無碍に変化する。それが、「空気」と彼らが神を名付ける所以だとするのが宗教学の定説となっている。

彼らは、空気の命ずるままに守り神を手に入れた。その有力なものが、ブランドものの小物やバッグである。彼らが高度成長を成し遂げ、可処分所得が増大したときに、神はブランドのバッグに宿った、と考えられた。例えば、ルイ・ヴュイトンのバッグは、生産国のフランスではステイタス・シンボルであるが、かつての日本では信仰の対象としてのアイコンであった。こうして、日本の女性は粛々とブランド製品を買ったのである。

神なる空気は、厄災に際しても、特定のものに宿る。そして、その欠乏、すなわち神の不在が日本人を不安に陥れる。オイルショックと呼ばれた石油製品の欠乏に際しては、どうしたわけか、日本人はトイレットペーパーにそれが宿ったと信じた。まだKOMIKEのない時分であるから、今よりは秩序正しくもなく、トイレットペーパーという守護神を逃すまいと我先にトイレットペーパーを奪うように買いあさった。

略奪は神の御心にそぐわない行為であるがゆえに、決して日本人は行わない。買うことができなければ、不安におののきながらも耐えねばならない。その試練を避けるがために、普段から、危機に陥ったら「空気をいちはやく読み取る」能力を怠りなく磨くのである。

地震が起こると、人々は張り切った。神への信仰を披瀝するお祭り気分が蔓延するからである。空気は人々に、「足りなくなると思うものに備えよ」と啓示を与えたもうた。もともと引きこもりを得意とする民族であるから、籠城はお手の物である。食料品、とりわけ主食である米やパン、そしてかつては水道水で十分だった水も最近では必需アイテムとして認識され、真っ先にバスケットに入れられる。人々は他に、懐中電灯、LEDの電球、電池、簡易ボンベなどを粛々とバスケットに入れ、レジに並ぶ。これら長期戦に備えたさまざまなもので買い物袋を一杯にした人々は、こころなしか晴れ晴れとした表情を浮かべてスーパーから出てくる。それはあたかもミサで懺悔をすませたキリスト教の信者のようである。

その足で、今度はクルマのガソリンタンクを満タンにすべく、ガソリンスタンドに向かい、忍耐づよく並ぶのである。

不思議なことに、クルマに積まれた、スーパーの買い物袋の多くに、ボックス型ティッシュパーパー5個入りを二つ、つまり10個のティッシュペーパーが入っている。

かつてのトイレットペーパー以降、いやそれ以前から神は紙に宿るものという信仰がこの国には満ちている。だからこの度の大震災に際しても、ティッシュペーパーは必需品扱いを受けている。

ティッシュペーパーがないと、彼らは狼狽するのである。清潔を保つだけでなく、ありとあらゆる局面でティッシュペーパーの感触を彼らは希求する。それはあたかも、チャールズ・シュルツのマンガに登場するライナスの毛布のようである。そう、セキュリティ・ブランケットならぬ、セキュリティ・ティッシュペーパーなのだ。

こうして、この国のかつての正月のように、いやそれ以上に店の中がすっからかんになり、各家庭には食料と、ティッシュペーパーが満たされ、彼らは災難に立ち向かうエネルギーを維持するのである。

そうして準備を整えて、彼らは被災地の暗い寒空で空腹に耐えながら助けを待っている同胞の無事を祈ることが可能になるのだ。彼らは同胞のために何かをしたいと思い、テレビの情報にかじりついて、情報を集める。節電に耐え、混雑した電車で会社に通い、仕事をこなしながら、被災地に思いを寄せ、そして寄付をする。

被災地でない地域に住む日本人にとっては、「初めにティッシュペーパーありき」なのだ。そうしていつの間にか、自分たちも同じモノ不足で連帯するのである。
201X3月某日)

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