2011年1月22日土曜日

東大生ジュン、映画Social Networkを語る(2)..ネタバレありあり

前回からの続き





支配できるもの、できないものがあることは、ザッカーバーグにも、もちろんわかっている。

映画の最後の5分は、後悔、悲哀のない交ぜになった、ひとりぼっちの人間でしかない、
最年少のビリオネアの、絶対的な孤独に包まれている。
それまでの強気一辺倒、高度成長路線は、すべてこの5分のための助走だ、と見終わってわかる。

目的のために走り続けた。支配と統制できる世界をつくり、そこに集うユーザーエクスペリエンスを増大させ、ユーザーから賞賛され、投資家から、他のIT企業から評価され、その世界はさらに拡大と進化を続けてゆき、その中心にいる。

エドワルドに、自分の一部が宿っているPCをたたき壊されて、彼の怒りを目の当たりにして、ああ、やりすぎたと反省し、自分がショーンに支配されていた、ということを初めて知る。いいタイミングで、「おれがCEOだぜ、この野郎」というふざけたタイトルの名刺が届いた、という演出が心憎い。

新米弁護士が「あなたは、Assholeなんかじゃないわ」となぐさめて、立ち去る。
冒頭のシーンで「Asshole」といって、自分をののしった女性に振られたこととの対比。

孤独の闇の淵にたたずんで、動かし得なかった自分のガールフレンドの気持ちを頭がよぎる。
失敗を謝罪するチャンスすら与えられず、どこか遠くに行ってしまった人。

でも、その人ともつながる可能性をもったFacebook。
Facebookを支配する自分が支配できない人がそこにいて、
どきどきしながら、フレンドリクエストを送る。

自分に正直であることは、他人を満足させられないという皮肉。
それでもFacebookを維持し、拡大し、強化することがやめられなくなっている自分。

コードを書く、という行為そのものは楽しくて病みつきになる要素を持っているけど、
それがなしえたことが、なしえなかったこととのギャップを広げていく...

その辺の気持ちは、ひとまず自分一人で味わっておきたいのだ。
孤独を他人と、いやエリと語り合うことで、自分のどこかが傷つくのがこわい。

おれは、マークのように強くない。
彼にとって映画の最後は、Facebookのまだまだ始まりに過ぎなかった。

もう一杯飲んだら、今日は何にもせずに寝ることにする。

エリからのFacebookメッセージに、返事するのは明日にしよう。

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